アサザプロジェクト物語3

3.霞ヶ浦に迫る新たな危機を乗り越える

アサザプロジェクトが始った1995年の翌年からは、国交省が霞ヶ浦の水位を人工的に上下させる管理を行う計画になっていました。
この計画が実施されたら湖の生態系に重大な影響が及ぶことが予想されていましたので、わたしたちは国交省に計画の中止を申し入れました。
国交省の計画では湖の水位を上下させて首都圏に水を送る予定でしたが、実際には水は足りておりそのような計画を行う必要がありませんでした。
そのことは、現在国交省も認めています。
ところが、霞ヶ浦開発で計画されていたことを理由に、国交省はわたしたちの批判を受けて一部の見直したもののほぼ計画通りに1996年から実施し始めました。

わたしたちは、国交省による水位操作が霞ヶ浦の生態系に影響を及ぼすことを明らかにするために湖内全域でのアサザの生育状況を調査することにしました。
当時アサザ群落は湖のほぼ全域に点在していたことと、アサザが水位操作の影響を受ける可能性のある生物のひとつに挙げられていたことから、アサザの変化に着目しました。
予想どおり、国交省による水位操作実施後に湖内全域でアサザ群落の衰退が始りました。
1996年から2000年までに、湖内に34カ所あった群落は、11カ所にまで減少してしまいました。
この間に、わたしたちはアサザの遺伝的な多様性を守るために、消滅するおそれのある群落から株の一部を採取して保護する活動を研究者等と共に行いました。
また、流域の小中学校や企業、市民などにアサザの株を育ててもらい増えた株を、湖に植え戻して群落の再生を試みる活動も行っていきました。

1995年の開始から2000年までに、流域の170校近い小中学校がアサザの里親などの様々な取り組みに参加してくれました。
最初の年は200人程度の参加でしたが、数年後には参加者は一万人を越えました。このような運動の広がりをつくるきっかけを作ってくれたのは、子ども達でした。
自分が通っていた学校に、アサザの里親のパンフレットを持っていって先生にクラスや学校全体で参加しようと何人かの子ども達が積極的に動いてくれたのです。
それ以外にも、これまで霞ヶ浦には無関心だった人たちや組織も数多く参加してくれるようになりました。
さらに、アサザだけではなくヨシやマコモなどその場所にあった水草の植え付けも始まりました。

このような流域ぐるみの保護活動にも関わらず、アサザは水位操作実施後に激減していきました。
そして、2000年には誰が見てもこのまま放置すれば絶滅することが明らかなほど衰弱してしまいました。
アサザだけではなく、湖内全域ではヨシ原の減少も進んでいました。まさに、霞ヶ浦は危機的状況に陥っていました。
このような状況から、わたしたちは国交省に水位操作の中止を強く求めました。
しかし、国交省は科学的に明らかではないと言って応じようとしませんでしたが、水俣病などの公害事件から得た教訓を基に予防原則にたって水位操作を中止するべきだというわたしたちの要求を受け入れ、2000年10月に水位操作の中止を決定しました。
この中止決定は画期的なもので、霞ヶ浦と同じく水位操作によって生態系に大きな影響が出ていた琵琶湖にも及び、その後琵琶湖でも水位操作の見直しが行われました。
もちろん、国交省に水位操作の中止を決断させた背景には、霞ヶ浦の再生を願いわたしたちの活動に参加してくれた多くの人々の声があったことは間違いありません。

また、この水位操作問題で国交省と意見が対立して間も、わたしたちは国交省と恊働でアサザ群落やヨシ原の再生活動を行ってきたこともあるでしょう。
水位操作の中止決定と同時に、国交省は水位操作後に減少したアサザ群落やヨシ原を再生することを約束しました。
その結果、2000年12月からNPOアサザ基金と研究者、国交省が恊働で、霞ヶ浦に自然を再生する事業を行うことになりました。
この自然再生の公共事業には、1万人を越える流域の小中学生や企業、市民など多様な人々が参加して、小学生によるお年寄りからの昔の湖の聞き取りや市民による水草の植え付け、流域の間伐材の活用などのこれまでの公共事業にはない新しい試みが数多く行われ全国から注目されました。
わたしたちが、提唱していた市民型公共事業という言葉も、広く社会に知られるようになりました。

次へ

  1.ひとつの花からはじまった物語
  2.湖に暮らす人々との出会い
  3.霞ヶ浦に迫る新たな危機を乗り越える
  4.水源や流域全体へと広がるアサザプロジェクト

 
このページの先頭へ