この一年、世の中は大きく変わりました。私自身も、これまでと大きく異なる一年を過ごすことになりました。
昨年の2月頃までは、毎週のように飛行機や新幹線に乗って全国各地に行き、地域の小学生たちと一緒に地域づくり学習を行っていました。(実は、移動が多くて酷い腰痛になっていました。)
ところが、コロナの影響で一変、県外への主張授業は突然なくなり、代わりにオンライン授業が増えました。(・・・腰痛は治りました。)
これまで20年近く、山間部や海辺、農村部、都市部など様々な環境で暮らす子ども達と出会い、その土地土地に眠るお宝を探す学習は本当に楽しく、子ども達のみならず私自身にも、新しい世界の扉が次々開かれていくようなワクワク感の連続でした。
ところが昨春以来、各地の子ども達と会うことができず寂しさはつのるばかり。中には、1年生の時からずっと一緒に学習して来て、今春卒業を迎える子ども達もいますから。
そんな中、地元で私の授業をサポートして頂いているNPOの方や熱心な先生方が、私のオンライン授業を準備してくれました。
かくして、私のオンライン授業が始まりました。いざ回線が繋がり、画面に子ども達の顔が映ると、同時に歓声が聴えてきます。みんなマスクをしているので、最初は誰だか分かりませんが、やり取りしている内にだんだん分かってきます。
不思議なものです。授業が始まりしばらくすると、自分も子ども達と一緒に教室にいるような気分になってきます。これも、子どもの力ですね。大人同士のオンラインでは、こんな感覚は生まれてきませんから。
以前から通っていた学校以外からも、オンライン授業の依頼があります。全くの初対面?しかもオンラインで!大丈夫かな。最初はどうなるのか不安でしたが、いざ始まってみると、すぐに和気あいあいの雰囲気に。もちろん、実際に会って授業をすれば、もっと盛り上がること間違いなし。
オンライン授業をするために、アサザ基金の事務所に大きな黒板を設置しました。いつもの授業と同じように、黒板いっぱいに生き物の絵を描き、子ども達とやり取りしながら、生き物とお話しする方法を学習します。私が、絵を描き始めると教室のザワザワが伝わって来るのは、これまでと少しも変わりません。
その時、私と黒板は、子ども達のいる教室の大きなモニターやスクリーンに映し出されているわけですが。
先生が黒板に板書したものを生徒たちがノートに書き写すのが、通常の授業です。私の授業も大体そんな形でやってきました。(ほとんどが絵ですが。)
オンラインでも、はじめはそのようにやっていたのですが、教室のスクリーンに板書がはっきり映らないことがあったりなどして、少し限界を感じていました。そんな思いでオンライン授業をしていた最中に、突然ひらめきました。
子ども達がノートに書いているなら、自分も一緒にノートを書きながら授業をしてはどうだろうか。子どもと達とのやり取りの中で思い付いた言葉や、今感じたイメージをそのままノートに書いてカメラの前にかざして、教室のスクリーンやタブレットに映し出してもらい、子ども達に見せるというやり方です。
これには、意外な効果があり驚きました。
先生が生徒に背を向けて立ち、黒板に向かって板書をする。それが普通の授業ですね。先生が書いたものを生徒が書き写すという、何か一方的な、というか、教壇の上の方から教えるという感じが強いです。その授業の雰囲気が、このアイデアで一変できることが分かりました。
私が、ノートに書いた図や絵を見せると、子ども達も自分が書いているノートを見せてくれます。(もちろん、他の子ども達もその子のノートを見ることができます。)そんなこと普通の授業ではできませんよね。
すると、子ども達の思考の動きや流れ、その子の学習の捉え方、子ども達一人一人の思考のレイアウト(心象風景)の今が、見えて来ます。それは、学習を創るための最高の資源です。今この時に、子ども達の頭の中にどんな世界が描かれつつあるのか、どのように考えようとしているのかを、その動き見ることができるのですから!
その動きの中には、子ども達の学びの可能性が眠っています。その可能性に気づくことができれば、一人一人から学びの展開を引き出すことができます。そこから、子ども達一人一人が自分の学びの空間を広げていきます。
子ども達の頭の中に描かれた世界が、一人一人が違っていても、学習は決して混乱しません。むしろ、違いが見えることが重要です。子ども達は、違い(多様性、多元性、多義性)の意味を感じ取りながら、思考の世界をより深く広く豊かにしていくことができるからです。このような体験があって初めて、子ども達の中に本物の知性が芽生えて来るのではないでしょうか。
このひらめきで、私はこれまでには無い形での一体感や近さを、子ども達と共有でき、新しい思考空間(新しい知性)を持つことができました。(やっぱり、これも大人とは難しいかな。)
コロナ禍の影響で、私たちの暮らしには様々な制約がかかっています。しかし、このような制約の中でしか思い付かないことや、考えようとしないこともあると思います。
制約は、私たちに不自由さを与えますが、制約の中で新しい方法を着想し、そこから新しい現実を創ることもできるのも、また人間です。(それが、人間の真の豊かさかも。)
ただ、深刻さを増している様々な現実もあります。
不自由さの中で、人々の不満や不安が増し、社会に潜在していた差別や暴力、矛盾が、世界中で顕在化しています。混乱の中から、世界はこのまま統制や管理の強化へと向かって行くのでしょうか。(民主主義は動揺を隠さず問い続け模索する、全体主義は上手く治めていると自慢し正当化する。)
危機の中での対策の効果や効率を求める最適解として、統制社会や情報監視社会、さらに独裁主義や全体主義が、評価されていくのではないかと恐れを感じています。
それとは別の道へ、私たちは、未来に向けて、今感じている不自由さの中から、新しい自由の創造へと向かって、一歩一歩を踏み出していくことができるのでしょうか。
人間が人間らしさを失わず生き抜いて行くために、必要な力とは、私は制約(不自由さ)を新しい様式(自由)に変容させる創造力だと思っています。(制約をパロディに変えてしまうユーモアや笑いの力、そして美へと昇華させてしまう力=生きる力)
それは、自己を出会いの場として開き発展させることで、管理を働きかけへ置き変え、困難を乗り越えていくためのアートと言ってもいいでしょう。
このようなことを書いていて、ふと、私が小学生の頃に母方の祖母が話してくれた、ガンジーの非暴力運動、塩の行進や糸車の運動を思い出していました。
飯島 博