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秋田、八郎がたに自然を取り戻すために

 

八郎がたのスーパースター 八郎太郎(はちろうたろう)!大きな竜の物語

きみには、好きな物語がありますか。きみは物語を読んで感動したことがありますか。物語には、人々に夢や勇気をあたえる力があります。

秋田県では、かんきょうがわるくなってしまった八郎がたを物語の力で良くしようとしている子どもたちがいます。八郎がたでは、昔のような自然がゆたかできれいな水の湖にとりもどすためにさまざまなとりくみがおこなわれてきましたが、なかなかうまくいきませんでした。多くの大人たちがあきらめかけていたときに、子どもたちが昔八郎がたにいた大切な生きもののことを思い出しました。それは湖に住んでいた大きな竜の物語の主人公、八郎太郎(はちろうたろう)です。

八郎太郎がいたころの湖は、水もきれいで、自然も豊かでした。「そうだ!八郎太郎をよびもどすことができれば、きれいな水も豊かな自然ももどってくるかもしれない!」そこで、秋田の子どもたちは、八郎がたに竜をよびもどす物語を作りはじめました。

 

八郎がたは、日本で2番目に大きな湖でした

八郎がたは、日本で2番目に大きな湖でした。平均の深さが4mととても浅い湖でした。八郎がたには、海からはしょっぱい水が、川からは真水(しょっぱくない水)が流れこんでいました。だから、海の魚も川の魚もいっぱいいました。それはそれは自然の豊かな湖でした。

昔は、八郎がたの水はすきとおっていて、中をのぞくと水のそこからはモグという水草がたくさんはえていて、そこには魚やエビなどがいっぱい住んでいました。モグというのは、水の底に根をはり、水の中でゆらゆらしている水草のことです。八郎がたは、モグがたくさん生えている湖で有名で、まわりに住んでいる人がモグをとってきて畑の肥料につかったり、かわかして綿(わた)のかわりにおふとんにつめたり、いろいろと利用していました。

八郎がたでとれたシジミやワカサギやシラウオは、つくだにに加工されて全国に出荷されるほど人気でした。八郎がたでは、人や生きもの、水などさまざまなものがつながりあってくらしていました。地域の人は、八郎がたをとても大切に、ほこりに思ってくらしていました。そして、大人は子どもに大きな竜・八郎太郎の物語を語りながら伝えていきました。

八郎がたでは「うたせぶね」という船を使って漁をしましたが、これはかすみがうらから伝わったものです。他にも、海に近いことや、広くて浅いことや、魚がたくさんとれた湖だったことなど、八郎がたとかすみがうらはよく似ています。そして今では、八郎がたはかすみがうらと同じように水のよごれやかんきょうが悪くなるなどの問題が起きています。

 

 

ひとびとが竜の物語をわすれてしまいました

八郎がたにゆたかな自然ときれいな水があったころには、竜も物語も元気に生きていました。<八郎太郎物語(リンク)>

八郎太郎は、八郎がたでたくさんの生きものといっしょに幸せにくらしていたそうです。地域の人々は、そんな八郎太郎を八郎がたと同じくらいとても大切にしていました。だから、今でも八郎がたのまわりには八郎太郎をまつる神社(じんじゃ)やほこらが多くあるのです。八郎太郎の物語は大人から子どもへと伝えられていきました。ところが、湖から自然が失われ水がよごれ、人々はだんだんと竜のことも物語のことも忘れてしまいました。

 

八郎がたは干拓されて、八郎湖になりました

多くの人々が竜や物語を忘れてしまうきっかけを作ったのは、湖の干拓(かんたく)工事でした。第二次世界大戦が終わった後、八郎がたでは干拓(かんたく)の工事がおこなわれました。干拓(かんたく)というのは、湖から水をぬいて湖の底を陸地にし、田んぼなどにすることです。八郎がたは干拓され、海と湖の間に水門ができて海からの道がなくなり、淡水(たんすい・海のしょっぱい水が入らない水のこと)の湖になりました。干拓の時に、八郎がたの半分くらいは水辺の自然がこわされてしまい、湖の面積も10分の1くらいに減ってしまいました。名前も「八郎湖」とよばれるようになりました。水はどんどんきたなくなり、最近はアオコが大発生して問題になっています。湖の中にたくさん生えていたモグも今ではほとんどなくなってしまいました。最近はブラックバスなど外国からきた魚がふえてきたために、もともと八郎がたに住んでいたワカサギなどの魚を食べられてしまい減っています。

地域の人々もだんだん八郎がたにも近づかなくなってしまいました。八郎太郎の物語をみんながわすれてしまい、みんなの心の中にいた竜もいなくなってしまいました。

 

みんなで新しい八郎太郎物語をつくろう!

「昔のような美しい八郎がたをとりもどしたい!」地域の人が立ち上がりました。でも大人の人たちが手をつくしてもなかなか湖はきれいになりません。大人たちがあきらめかけていたときに、大人たちに勇気と希望をあたえてくれたのが、子どもたちでした。子どもたちが作り始めた物語の力が大人たちを動かしたのです。子どもたちは「おかえり八郎太郎物語」という物語をつくりはじめたのです。むかし、八郎太郎がいたころの物語が「八郎太郎物語」でした。でも、八郎太郎が一度いなくなってしまったので、今度は八郎太郎が帰ってくる物語がひつようです。「これからは八郎太郎をよびもどす未来の物語『おかえり八郎太郎物語』をつくろう!」と、2004年から八郎がたのまわりでアサザプロジェクトをお手本にした取り組みが始まりました。子どもたちは考えました。八郎太郎にもどって来てもらうには、どうしたらいいのだろう。まず、八郎太郎と一緒にくらしていた生きものたちをよびもどそう。生きものとお話しする方法を学習して、生きものたちから湖をよくする方法を教えてもらおう。

そして、八郎がたの悪いところだけを見るのではなく、八郎がたのいいところを見つけ出して、そのいいところをもっとふやしていこう。そうすれば、八郎がたもきっとよくなっていくはずだ。おかえり八郎太郎物語の主役は、子どもたちです。子どもたちは、夢やそうぞう力があるからです。そして竜や生きものと友だちになれるからです。この新しい物語づくりには、これまでに1万人以上のこどもたちが参加しています。竜といっしょに生きていた昔の人からも教えてもらいました。

 

石川理紀之助(りきのすけ)の教えから学ぶ

子どもたちは生きものとお話しする方法を学習することで、生きものたちがその土地の特色をいかしてくらしていることに気づきました。そして、人間も自分たちの土地の特色をよく知り、生かしてくらすことで、自然をこわさずに生きることができるのではと考えるようになりました。

じつは子どもたちと同じことを考えていた人が、昔地元にいたのです。それは、八郎がたの近くで江戸時代から大正時代にかけて生きた、石川理紀之助(りきのすけ)という人でした。多くの人たちからそんけいされた人で、農業だけではなく自然や土地の歴史、人々のくらしなどさまざまな知識や知恵を持っている人でした。石川りきのすけは、特に秋田の貧しい村を救うために力をつくしました。村を救うためには、決まり事をたくさん作るのではなく、村人が自分の村の特色やいいところを学び、いいところをいかした特産品づくりや村づくりをしていくことが必要だと考えていました。そこで石川りきのすけは、『適産調べ(てきさんしらべ)』ということを行いました。適産調べとは、八郎がたのまわりを中心に、自分たちの村をすみずみまで調べて村のとくちょうやいいところを見つけ出し、それらのいいところをいかしてこれからの村をどうしていくのか、村の人たちと計画をたてていくものでした。

石川りきのすけは今から100年近く前に生きた人ですが、りきのすけの取り組みや考え方は、これから八郎がたをよみがえらせていく方法を考えるときにとても参考になります。りきのすけのように、地元を見直すことで、いつもはあたりまえのものだと思っていたものが宝ものに見えてくることがあります。そうです。人々が八郎がたをよみがえらせる宝ものがすぐ足元にねむっていることに気づき、その宝ものをいかしてこれから八郎がたをどうしていけばいいか計画を立てて実行していけば、きっと八郎がたをよみがえらせていくことができるのです。

 

子どもたちがはじめた、八郎がたのブランドづくり!「子ども適産調べ」

八郎がたの近くにある大久保小学校(今は、大豊小学校になりました)の4年生の子どもたちは、八郎がたに八郎太郎をよびもどすには、八郎がたの環境にいいもの(たとえば、無農薬のお米やつくだになど)を増やしていくことが必要だということに気づきました。そういうものをもっとたくさんの人に知ってもらったり、買ってもらったりしてもらうためには、その「物」を手に取ってくれた人に物が「語りかける」ようになればいいんだ!つまり「物語」です。物が人々に語りかけるようにするためには、物にま法をかけるひつようがあります。子どもたちは物にま法をかけるために、子どもたちの八郎がたへの想いや願いをこめたシンボルマークを作ることにしました。

 

シンボルマークを作る時には、みんなで何度も話し合いました。そして「多数決はしない!」ということを決めました。多数決をしたら、そこで物語が終わってしまうからです。4年生70人が、それぞれいろんな意見をもっています。その意見がぶつかることもありましたが、その時には2つの意見をどちらもふくまれている新しい考え(アイデア)がうまれました。ひとつのマークができるまでたくさん話し合いました。最後に全員が満足するマークができました。このとき、子どもたちひとりひとりが物語の主人公になっていました。

このマークには、たくさんの想いがつまっています。このマークのテーマは「つながり」です。

 シンボルマークロゴ無し

竜も物語も子どもたちの心の中で生きていたのです。だから、子どもたちは物にま法をかけるマークをつくることができたのです。子どもたちの学習はその後もつづきました。5年生になってからは、八郎がたの特産(とくさん)であるつくだににマークのついたシールをはってもらえるように、お店の人にたのみに行きました。シンボルマークの意味を伝えることはなかなかむずかしかったですが、お店の人に想いが伝わり、6年生の時にシンボルマークがはられたつくだにが、道の駅やお店に並びました。子どもたち想いが伝わり、大人たちも動き出しました。2012年には東京の上野駅でも八郎がたを大切に思う人たちが作ったお米や野菜などにシンボルマークを貼って販売しました。東京でも150人をこえる人たちに買ってもらうことができ、物語の輪(わ)がひろがりました。子どもたちが作った物語が本当に人々を動かしたのです。

八郎がたのまわりにあるその他の小学校でも、それぞれの地域の特色を生かして八郎がたの再生を目指す取り組みをおこなっています。そして、新しい物語が次々と生まれています。

このように、子どもたちが主役の八郎がたに竜をよびもどす物語は、たくさんの人の心にひびき、広がっています。物語の力をもっともっと大きくして八郎がたの再生につなげていくために、みなさんもおかえり八郎太郎物語づくりにさんかしませんか。

 

 

秋田の子どもたちへ

秋田県は、高齢化(こうれいか)が日本で1番すすんでいる県です。多くの子どもたちが、大人になると秋田を出ていってしまい人口がへっています。八郎がたのまわりの学校に授業に行っても、子どもたちから「秋田には仕事がないから、将来は県外に出るしかない」という言葉をききます。

でも、これまで「おかえり八郎太郎物語」に取り組む子どもたちの活動を読んできてくれた君は気がついてくれたと思います。自分の住んでいる地域のいいところをもっとよく知って、それらのいいところをいかして多くの人々に語りかけるものを作ることができるようになれば、君にも秋田で新しい仕事をつくることができるし、秋田でなければ作れないもので、全国に発信(はっしん)していくことができるのです。そのような若い人たちがふえていけば、秋田県も八郎がたももっと元気になっていくはずです。未来の秋田をつくっていく主人公は君です。がんばってください。